渡辺利雄氏は、東京大学で行った20年近くの講義に基づき、『講義 アメリカ文学史[全3巻]――東京大学文学部英文科講義録』を2007年12月に3巻同時刊行しました。そして2年後の2009年12月に、『講義 アメリカ文学史 補遺版』を刊行しました。青山ブックセンターでは、2010年3月13日、この偉業を成就された著者の渡辺利雄氏をお招きし、日本アメリカ文学会東京支部長の後藤和彦氏による司会・進行のもと、広くアメリカ文学の魅力について、一般読者向けにお話しいただきました。フロアでは、かつての教え子である柴田元幸氏、上岡伸雄氏(この日はパワーポイントの上映にご協力いただきました)、舌津智之氏、諏訪部浩一氏ほかも熱心に耳を傾けていました。
はじめに
われわれの文学体験、つまり読書は、理想的には、文学作品を書いた作家と、それを読んで自分なりに楽しむ読者の個人的な体験ではないでしょうか。そこには批評家、解説者、あるいは文学史家などが介入する必要も余地もないのではないかと思われます。 おそらく、ユートピアには、文芸批評家などいないのではないでしょうか。 もちろん、あらゆるものには初心者がいますから、読書においても、そうした経験の少ない読者に対し、読書量の多い先輩の読者が道案内を務めるのも、まったく無意味ではないと思います。ことに外国文学の場合、日本語とは違う言語が介入するので、その言語に通じた者が、翻訳者、あるいは研究者として、原作者と日本の読者の橋渡し役を果たす必要があるかもしれません。しかし、その場合も、この外国文学の研究者はあくまでも黒子の役に留まるべきで、表に自らの姿を現わすべきではないと考えます。
私は、3年前の2007年暮、研究社から、20数年間、東京大学などで文学史の授業を担当した講義ノートを元に書き下ろした『講義 アメリカ文学史(全3巻)――東京大学文学部英文科講義録』(約1500ページ、88章からなります)を刊行しました。そして今年1月に、その「補遺版」(これも600ページを超える大部のものになりました)を刊行しました。そして、この文学史4巻は、私個人のアメリカ文学観を一方的に読者に押し付けるのではなく、アメリカの「文学者」(文学者という表現を使いますが、それは詩人、小説家、劇作家、批評家、研究者[学者]のすべてを含みます。「作家」と言うと、私の語感では、詩人や研究者などはみ出してしまうように感じますので、これ以降も、この「文学者」という言葉を使います)と、この文学史を書いた「私」と、そしてこの文学史を読んでくださる「読者」のみなさん(その中には、教室で私の講義を聞いてくれた学生諸君も含めます)の三者が一体となって生み出す新しいアメリカ文学史を目指しました。
そのために、文学者の伝記的な事実や作品に関する研究書や研究論文になるべくたくさん目を通して、英米での解釈や評価を、できるだけ私自身の意見を抑えて、客観的に資料として紹介し、最終的な判断は読者に任せるように心がけました。また、作品の「さわり」の部分のほか、解釈が分かれる場面などもできるだけ多く引用し、読者の判断材料にしてもらえるようにしました。これによって、文学史としてだけではなく、アメリカ文学のアンソロジー(詩文選)としても読んでいただけると思います。
また、外国文学の場合、翻訳されると、原文にある言語的な連想や、そこに付随する文化的な背景が失われることにもなるので、東大で行なっていた演習の授業のように、Oxford English Dictionaryなどの大きな英英辞典に記載されている情報を調べ上げて、それも適宜盛り込みました。たとえば『大地』(The Good Earth)で日本でも広く知られているパール・バックの章(補遺版98章)をご覧ください。私などは、まだ大学の英文科に進学するとは思ってもいなかった頃、この作品を特にアメリカ文学のものは思わずに翻訳で読んだと記憶しています。パール・バックは、牧師の子に生まれて、英語の聖書とともに育ち、その文体はKing James Bibleと呼ばれる欽定訳聖書(1611)に強く影響されていると言われています。聖書からの引用も無数にあり、それに気がつかないと、バックが『大地』に盛り込んだ文化的背景を読み落とすことになります。たとえば、次のような例はどうでしょうか。これについては、『補遺版』244ページで指摘しています。主人公の王龍(ワン・ルン)は生活に少し余裕ができると、蓮花(リェン・ホワ)という若い女性を愛人にします。バックは、そんな彼について、‘he went in to her’と言います。これは途中からの引用で、ここには大文字も終止符も使われていませんが、構文も単語も日本の中学生でも知っていると思われるものです。そしてある翻訳では、この部分は「彼が彼女の部屋に入りびたった」となっています。前後関係から判断しますと、そんな感じもしますが、この‘go in to(unto)’という英語の表現は英語の聖書には多く見られるもので、正しくは「(女性と)肉体関係をもつ」という意味です。先ほど紹介したOxford English Dictionaryや、そしてアメリカを代表する辞典Websterにも、この定義が、聖書からの用例にあわせて、記されています。
この聖書の表現もある意味婉曲表現と思われますが、「女性の部屋に入りびたった」ということはなく、聖書の用例‘he went in unto his brother’s wife’からわかるように、身内の女性との肉体的な不倫関係を暗示することになります。おそらく、その不貞の罪の意識が、同じ不倫でもずっと強いのではないでしょうか。
文学史を書く者は黒子に徹すべきだと言いましたが、外国文学の紹介の場合は、こういった外国語の理解もありますので、同じ黒子でもその果すべき役割は大きいと思われます。ですので、本日は黒子の衣裳を脱いで、アメリカ文学史について、問題にしなければならないこと、『講義 アメリカ史』の中でまとめて言えなかった「アメリカ文学史」に関する歴史的な問題、さらには理論的というか、原理的な問題について、時間が許す限り、しゃべらせていただきたいと思います。
「アメリカ文学史」の成り立ち(1)――「アメリカ」
「アメリカ文学史」は、その表現そのものが示す通り、「アメリカ」+「文学」+「歴史」の3つの要素から成り立っています。ここからは、この3つのキーワードを軸にして考えていきたいと思います。
まずは、「アメリカ」について考えてみましょう。この「アメリカ」とは何かという問題は、文学だけでなく、アメリカ研究すべてに係わる大問題で、これだけでも、1時間か2時間お話ができてしまいます。今日は簡単にその問題点を説明します。私の文学史でも、フランス系のミシェル・ギヨーム・ジャン・ド・クレヴクールの章(第1巻18章)において、「アメリカ人、この新しい人間はいかなる存在なのか」という有名な疑問を論じています。ぜひその部分を読んでいいただきたいと思いますが、アメリカ人は、イギリス人、フランス人、あるいは日本人とは違って、先祖代々アメリカ人であったというわけではありません。今から500年以前はアメリカ人というものは存在せず、現在アメリカ人と称している人間は、元を正せば、すべて旧大陸の人たちなのです。したがって、今も日系アメリカ人、イタリア系アメリカ人、あるいはユダヤ系アメリカ人といった言い方がされます。アメリカ人は、すべて何代か前の祖先がアメリカに移住することによって、アメリカ人になったのです。
ご存知のように、アメリカにメイフラワー号などで最初に移住してきたアメリカで一番古い家系ですら、10代ほどの歴史しかありません。今、この新しい世界に移住してきて、アメリカ人になったと言いましたが、厳密には、アメリカに来た人たちは、どれだけ世代を重ねても、厳密な意味では100パーセントアメリカ人とは言えません。つまり、最初の移住者の一世たちは、旧世界の人間で、アメリカ人というより、移住してきた元の国の人間としての性格が強かったのです。2代目の2世の人たちは、2分の1がアメリカ人ですが、残りの2分の1は、文化的にも、言語的にも、肉体的な特徴においても、旧世界の人間です。3世は、4分の3はアメリカ人ですが、残りの4分の1は旧世界の要素を留めています。4代目の4世も、8分の1は旧世界的なものが残っています。どれだけ世代を重ねても、100パーセントアメリカ人という人間は存在しません。もし、「100パーセント、アメリカ人」といえる者がいるとしたら、それは無限に先の未来のことになるでしょう。ですから、完全なアメリカ人というのは虚構の存在であり、実在しないのです。そしてアメリカでは、さまざまな人種、民族の血が結婚などを通して混じり合います。そこから多様な人種、民族が生まれ、その人たちが全体としてアメリカ人ということになる。そのために、アメリカ人には自身のアイデンティティの疑問と不安がつきまとい、それがアメリカ文学の大きな主題の一つとなります。
このような状況の中で、常識的には、アメリカの国籍を持っていれば、あるいは取得すれば、どのような過去をもった人間であろうと、その人間はアメリカ人と見なされるが、文学に関していうと、問題はそう簡単ではありません。一例をあげましょう。アメリカの文学者とされ、私の文学史でもアメリカの小説家として1章(『補遺版』第103章)を割いて論じているアイザック・バシェヴィス・シンガーという文学者がいます。シンガーは1904年にポーランドに生れたユダヤ人で、人間成長期を旧大陸ポーランドなどのユダヤ人社会で過ごし、成人後は新聞社で働き、小説を書いていましたが、1935年、ナチスのユダヤ人迫害を逃れて、アメリカに亡命します。31歳のときでした。ニューヨークにたどりついたあとも、アメリカに逃れてきたユダヤ人向けの新聞で働きながら、文学活動を続け、1943年、39歳のときにアメリカ国籍を得ます。そこで法律上は一応アメリカ人になりました。今、文学活動を続けたと言いましたが、その場合も彼は英語では小説を書かずに、ユダヤ人の言語イディッシュ語(ドイツ語にヘブライ語が混じったもの)で書きました。そして、それを他人に英訳してもらいました(シンガー自身は英語も堪能なので、共訳とも言えると思いますが、最初はともかくイディッシュ語で書いていました)。代表作といってよい短篇“Gimpel the Fool”は、ユダヤ人小説家のソール・ベローが英訳しました。そしてこの短篇は内容もすばらしいですが、翻訳もすばらしく、シンガーはこれによって短篇小説家として高い評価を得ました。
そして、1978年(74歳)に、アイザック・バシェヴィス・シンガーは、ノーベル文学賞を受賞します。(そしてソール・ベローも、その2年前にノーベル賞を受けています。)このシンガーの受賞を報道するにあたって、日本のマスコミは「アメリカ小説家」と紹介していました。国籍がアメリカなので、その通りと言えばその通りなのですが、人生の半分以上、特にアイデンティティが確立される青年時代をヨーロッパのポーランドで過ごし、アメリカ移住後もイディッシュ語で作品を書き、小説の大半がヨーロッパのユダヤ人社会を扱っているアイザック・バシェヴィス・シンガーという作家を、はたしてアメリカ作家といってよいでしょうか。ベローもユダヤ人です。彼はカナダ生まれのユダヤ系二世で、9歳の時に一家でアメリカのシカゴに移住してきて、シカゴの下町で「アメリカ人」として育ちました。自伝的な色彩の強い代表作The Adventures of Augie March (1953)の冒頭に、‘I am an American, Chicago born―Chicago,that somber city…’ (俺はアメリカ人、シカゴ、あの薄汚い大都会生れの)とベローは書いています。ここからわかるように、ベローはユダヤ人であるますが、完全にアメリカ人になりきっている。したがって、ノーベル賞授賞に際して、この作家がアメリカ小説家と紹介されたのは、当然と言えます。しかし、シンガーに関しては、先ほど申し上げたように、事はそれほど単純でなく、ある新聞は「ポーランド生まれのアメリカに住んでいるユダヤ系小説家」というような紹介の仕方をして、アメリカ小説家と断定していません。それにはそれなりの理由があります。
この問題は、海外からアメリカに移住してきた作家だけでなく、逆にアメリカで生まれ、その後、旧大陸に、ことにイギリスに移住し、イギリス国籍を取った文学者の場合も問題になります。これも具体的なケースを考えてみましょう。T・S・エリオットという詩人がいます。 T・S・エリオットは有名なThe Waste Land(『荒地』、1922)や、Four Quartets (『四つの四重奏曲』、1943)で知られた20世紀英語圏最大の詩人ですが、アメリカ有数の名家に生まれました。そしてエリオット家は、1669年にイギリスからマサチューセッツ植民地へ移住してきていて、T・S・エリオットはその9代目の末裔でした。一家からはハーヴァード大学の学長や、セントルイスの名門私立大学ワシントン大学の創立者など、数多くの人材が出ています。そしてT・S・エリオットも当然のようにハーヴァード大学に入学し、哲学、文学、サンスクリットなどを学び、26歳の時にイギリスのオックスフォード大学に留学、そのままイギリスに残り、詩人としてモダニズム文学の旗手として活躍して、1927年(39歳)イギリスに国籍を移しました(偶然ですが、シンガーの場合と同じ年齢です)。その後は何度かアメリカを訪問しますが、最後はイギリス市民として生涯を終えて、エリオット家発祥の地サマセット州の小さな村East Cokerの教会に葬られます。『四つの四重奏曲』の一つで、彼は‘In my beginning is my end.’と言っています。わが国では、エリオットはイギリスの詩人として扱われることがほとんどです。わたしが調べた限り、エリオットをアメリカの詩人とする辞典、文学辞典、人名辞典は皆無です。一つだけ、あるアメリカの辞典の翻訳が「アメリカの詩人」と定義していますが、それ以外は「イギリスの詩人」と記されています。
私が在職した東大英文科でも、エリオットは「イギリスの詩人」と見なされて、学生の卒業論文や修士論文の指導も評価も、イギリス文学専攻の同僚教師が担当していました。事実、当時の東京大学にはエリオットを専門に研究するイギリス文学の学者がいて、私など出る幕はありませんから、文学史の講義でもこの作家をとり上げませんでした。2007年に刊行した『講義 アメリカ文学史[全3巻]』でもとり上げていません。ところが、この文学史を出版した後、何人かの友人から「エリオットをとり上げないのはおかしいのではないか」というご意見をいただきました。エリオットをアメリカ文学史では無視することに、私もまったく問題を感じていないわけではありませんでした。その詩や評論には、アメリカ的な要素や影響が感じられます。たとえば、もっともアメリカ的小説とされるマーク・トウェインのAdventures of Huckleberry Finn (1885)について、エリオットは必読の解説的な序文を書いています。それは、ある意味では当然で、Huckleberry Finnはミシシッピー川を舞台にしていますが、エリオットはこのミシシッピー川の川岸に位置するミズーリ州セントルイスに生まれ、そこで少年時代を送っています。ミシシッピー川を舞台にしたマーク・トウェインのこの小説をもっともよく理解できる読者の一人だったわけです。それだけでなく、詳しいことは『補遺版』に書いているので読んでいただきたいですが、“Eliot as a Product of America”という論文や、The American T. S. Eliot (1989)とか、T.S. Eliot:The Making of an American Poet (2005)という題名の研究書が出版されていて、アメリカ詩人としてのその伝記的な背景や、アメリカ詩人としての特徴や成長過程がいろいろと指摘されています。こうした研究書は、T・S・エリオットをアメリカ詩人と見なしているのです。
エリオットの伝記的な背景を調べた研究者は、彼のアメリカでの初代の祖先が、あの有名なセーレムの魔女狩り、魔女裁判に関係していたという事実も指摘しています。この事件は、あのThe Scarlet Letter (『緋文字』)の著者ナサニエル・ホーソーンの祖先も関係していて、ホーソーンがその事実と記憶に悩まされつづけていたことは広く知られていますが、同じことがエリオット家にもあり、エリオットは、アメリカ文学を扱った講演で、アメリカ文学、特に自分の祖先と繋がりのあるニューイングランドの文学の理解には‘witch-hunting’(魔女狩り)ではなく、‘witch-hanging’(魔女絞首刑)がどういう意味をもつか知らなければならないと言っています。私は最初にそれを読んだ時、その意味がいま一つわかりませんでしたが、いま思うと、エリオットは自分の家系の暗い過去を知っていたのだと思います。そして、さらに驚いたことは、エリオット家の家系図を調べてゆくと、ニューイングランドの有力な家族は数が限られていたためか、9代も溯ると、エリオット家は19世紀の主だったニューイングランドの文学者の多くと血が繋がっているのです。ホーソーン、Moby-Dick (『白鯨』)のハーマン・メルヴィル、19世紀の詩人ジョン・グリーンリーフ・ホイティア、ジェイムズ・ラッセル・ローウェル、『ヘンリー・アダムズの教育』で知られたヘンリー・アダムズといった文学者たちが、家系的にエリオット家と繋がっているのです。こうなるとエリオットはアメリカ社会と文化から離れましたが、その繋がりを無視したのでは、この作家の全体像を捉えることはできないのではないでしょうか。その意味では、エリオットとは本質的にアメリカ詩人と言えると思います。
エリオットと同じような経歴の文学者といえば、技法的に現代小説の出発点と見なされるヘンリー・ジェイムズがいます。ヘンリー・ジェイムズもニューヨーク市有数の裕福な家に生まれましたが、生後10ヶ月で両親に連れられてパリに行ったのを始めとして(ジェイムズが最初に覚えているのは、パリのヴァンドーム広場のナポレオン像だという)、ヨーロッパに長く滞在し、最後は1915年(死の前年)に英国籍を取って、イギリス人として没しています。T・S・エリオットとは帰化した年齢こそ違いますが、似たような生涯を送りました。ししかし、ジェイムズはエリオットとは違って、辞典や文学史では、ほぼ完全に「アメリカの小説家」と見なされています。アメリカを代表する8人の文学者の研究史を扱ったEight American Authorsでは、ホーソーン、メルヴィル、ホイットマン、マーク・トウェインなどと並んで、ジェイムズは代表的なアメリカの小説家と見なされています。ですが、なぜ日本では、エリオットはイギリスの詩人と定義されることが多いのでしょうか。それに対して、なぜアメリカでは、この作家がアメリカの詩人と見なされることが多いのでしょうか。
私が文学史の講義で参考にした大型のアメリカ文学のアンソロジーAmerican Literature: The Makers and the Making(Cleanth Brooks, R. W. B. Lewis, Robert Penn Warrenほか編)では、ロバート・フロストやウィリアム・カーロス・ウィリアムズ (エリオットが国際的に活躍しているのに対して、この二人はアメリカの土着的な詩の伝統を継承した生粋のアメリカ詩人と考えられています)の典型的なアメリカ詩人よりも、エリオットに多くのスペースが割かれています。先ほど述べたとおり、日本で出版された文学辞典や人名辞典のほとんどが、T・S・エリオットを「イギリスの詩人」と分類しています。ただ、例外的に、私も監修者の一人として編集に参加した研究社の『20世紀英語文学辞典』では(この辞典の編集方針としては、「アメリカの詩人」といった風に、国籍を明記することにしてあったと思います)、エリオットの項目の担当者は、「詩人・批評家・劇作家」とするだけで、あえて国籍をつけないことで、エリオットに対する一つの見識を示しています。(ただし、「Missouri州St Louisに生れたが、1927年イギリスに帰化」という情報は付け加えています。)
このように、アメリカの場合、国籍など問題にすると切りがありませんが、あと二つだけ申し上げて、「アメリカ文学史」の「アメリカ」の要素は切り上げたいと思います。一つは、英米両国には、公式の十数巻に及ぶ大型の人名辞典があり、(イギリスのOxford Dictionary of National BiographyとアメリカのNational Dictionary of American Biographyという)、収録する人間の人選には厳格な基準がありますが、エリオットは両辞典の基準を満たすらしく、どちらの人名辞典にも自国人と認定されていることがあります。このように、経歴的に両国にまたがっている場合は、両国から締め出されることもあり得ると思われますが、エリオットは英米両国で取り合っているのです。もう一つは、エリオット自身が、自分の文学と詩(poetry)の源はアメリカにある、とあるインタビューで明言していることがあります。『補遺版』には、そのインタビューの言葉を原文を引用していますので、そこでエリオットの発言をご確認ください。Paris Reviewという国際的な文芸雑誌でのインタビューで、アメリカの過去や文学伝統との繋がりについて尋ねられたエリオットは、もし自分がアメリカに生まれなかったら、また、イギリスに来なかったら、現在の自分はなかっただろう、重要なことは両者の結びつき(a combination)である、と答えています。そして、自分の「感情的な源」(emotional springs)は、アメリカにある、と明言しています。エリオットのアイデンティティの理解には無視できない証言だと思いますが、このインタビューも日本でのエリオットの紹介ではまったく無視されています。この問題はジェイムズやエリオットだけでなく、あと一人、Lolita(1955)の作者ウラディーミル・ナボコフも、人名辞典などでは、「ロシア生まれの」という但し書きはついているものの、「アメリカの作家」となっていることが多いと思います。私も『講義 アメリカ文学史[全3巻]』の第3巻75章で、ロシアからアメリカに亡命してきた作家としてとり上げています。
ともかく、純然たるアメリカ文学が存在するのか、究極の「アメリカ人」が遠い未来にしか存在しないと同様、ここにはさまざまな問題が含まれておりますし、それに対する完全な答えはいまだ提出されていません。しかし、言うまでもなく、これはアメリカ文学にとって、非常に重要な問題です。
「アメリカ文学史」の成り立ち(2)――「文学」
次に、「アメリカ文学史」の中の「文学」という要素を考えてみたいと思います。つまり、「文学」と称するものはいろいろありますが、「文学史」でそれをどこまでとり上げるべきかという問題です。これも大変な問題で、私自身はどのように考えればよいのか、まだ結論が出ていませんので、ここではこの問題のあり方について示すことにとどめたいと思います。アメリカでは、1960年代を境にして、その思想風土が大きく変わりました。その最大の特徴として、政治的、文化的、その他あらゆる領域における差別をなくそうという運動が盛り上がったと言えると思います。ことにアメリカでは、独立宣言以来、「平等」を建国のモットーにしてきているので、被支配者や弱者による基本的な人権の要求する運動や、剥奪されてきた権利の奪回の運動が推進されました。言うまでもありませんが、アメリカ社会の少数民族、黒人、東洋系、女性、若者、学生、貧困者、あるいは同性愛者たちは、それぞれの立場から、自分たちの権利要求運動を展開したのです。
文学の面でも、当然それと連動して、伝統的な「キャノン」の見直しが始まりました。「キャノン」という言葉はまだ日本語としてはまだ熟していないかもしれませんが、要するに、「古典的な偉大な作品」ということになるかと思います。その見直しが始まったのです。かつては、アメリカ文学でそうした「キャノン」視されていたのは、東部ニューイングランドのWASP(White, Anglo-Saxon, Protestant)の白人男性のエリート文学であって、女性や、白人でもアイリッシュ系、宗教的にはカトリック、さらにはユダヤ系の作家たちが排除されてしまうこともよくありました。それが1960年代を境に風向きが変って、「人種、階級、性差」(race, class, gender)を判断の基準にして、それまで抑圧、無視されてきた、そして忘れられていた女性作家などが再発見され、再評価されるようになりました。その代表的な例が、平凡な結婚生活に不満を覚えた既婚の女性が、他の男性と不倫関係を結び、女性の自由と性(セックス)に目覚めながら、周囲から非難され、最後は沖合いに泳いで出て、自殺する(物語では事故死でもあるように描かれてもいる)悲劇を描いたThe Awakening (1899)です。この作品は出版当時は道徳的な理由で発禁本となり、作者ケイト・ショパン(フランス系で、有名なフランスの音楽家とスペルも発音も同じ)は、セントルイスの社交界から追放されてしまったのです。
それが、1960年後半にフェミニズム女性研究者によって再発見され、今ではアメリカ文学を代表する傑作小説として必読書となっています。同じように、今回の補遺版でとり上げたシャーロット・パーキンズ・ギルマンの短篇小説“TheYellow Wall-Paper”は、私たちが学生の頃は名前も聞いたことがありませんでした。つまり完全に忘れられていたのですが、現在では、これまた、女性解放を扱った小説として必読のものになっています。この小説はどんなものであるか、どのように解釈されていたか、それがどのようにして忘れられていたか、そして1970年代に、どのような形でアメリカ文学で扱われるようになったか、これについてはぜひ『補遺版』を見ていただきたいと思います。このように、アメリカ文学の「キャノン」は、女性文学者を中心に拡大しましたが、その一方では、わが国で広く親しまれているかなり多くの男性文学者が「キャノン」から押し出されてしまいました。こうして、私は「アメリカ文学の見直しの見直し」が必要ではないかと考えるようになりました。そのいきさつにつきましては、『講義 アメリカ文学史[全3巻]』の第3巻の最後に収録した日本女子大学での「最終講義」や、『補遺版』の最後にある後藤和彦さんとの対談を見ていただきたいと思います。そして今日は、アメリカ文学史で軽視されている、そして私自身も『補遺版』で気になりながらも十分に取り上げることのできなかった大衆文学、あるいは探偵小説やSFやファンタジーの作品について、反省の気持ちをこめて、少しお話したいと思います。
こうした通俗小説などは、純文学(両者の違いはよくわからないですが、実際、両者ははっきり区別されています)に比べて、何か質的に劣っていると思われるかもしれないですが、しかし、そうした文学を無視して、一国の文学の全体像が捉えられるかという問題があります。日本でいえば、松本清張、司馬遼太郎、あるいは芥川賞でなく、直木賞、山本周五郎賞、江戸川乱歩賞などの受賞者の作品を無視して、現代日本文学の全体像を捉えることができるでしょうか。純文学の中には数千部しか売れない作品も少なくないと聞きますが、それに対して通俗小説の中には何100万部も売れるベストセラーがあります。Gone With the Wind のマーガレット・ミッチェルや、To Kill a Mockingbird(映画化、『アラバマ物語』)のハーパー・リー、そして現代のスティーヴン・キングなどを文学史でどう扱えばよいのかという問題です。こうした通俗小説家、大衆文学は、19世紀にも数多く書かれていて、それぞれの時代に、純文学の一流作家以上の影響を、一般読者にあたえています。
今度の『補遺版』では、19世紀の代表的な通俗小説家F・マリオン・クロフォードと、すでに紹介したパール・バック、そしてハードボイルド型の探偵小説として知られた『マルタの鷹』(The Maltese Falcon)の作者ダシール・ハメットをとり上げました。クロフォードは、現在は完全に忘れられていますが、生前はマーク・トウェインやヘンリー・ジェイムズなどよりも一般読者の間で人気のある小説家で、生涯に44編の長篇小説を発表し、そのいずれもベストセラーになりました。クロフォードはアメリカの名門の生まれでした。父親は有名な彫刻家で、イタリアに居を構え、文化的で優雅な生活をしていました。そしてクロフォードはイタリアに生まれ育ち、ヨーロッパ各地の大学で教育を受け、国際的な教養を身につけ、イタリアをはじめとするヨーロッパを舞台にしたロマンティックな歴史小説、恋愛小説、怪奇小説などを多く書いて、ヨーロッパに憬れるアメリカの一般読者の支持を受けていました。ニューヨークの裕福な家に生まれたヘンリー・ジェイムズとも家族ぐるみで付き合う関係にあった。ジェイムズは自分より10歳ほど若いクロフォードを、先輩小説家として、ロンドンで小説家仲間に紹介したりしていましたが、通俗的なメロドラマで読者の人気を集めるこの年下作家に対して、表向きはさりげなく振舞っていましたが、親しい友人には彼をやっかむ手紙を送ったりしていました。その手紙は『補遺版』に引用してありますので、ぜひご覧ください。印税収入や、読者の人気などを考えると、ジェイムズの気持ちも理解できるところがあります。ところが、1世紀後の現在では、ヘンリー・ジェイムズが19世紀、20世紀最大の小説家として神格化されているのに対して、マリオン・クロフォードは名前が言及されることすらなくなっています。
現代の文学理論などからすると、クロフォードの小説が無視されるのも止むを得ないかもしれません。しかし、その一方で、メジャーな大作家だけでなく、その周辺の大衆小説も文学史の一部として目を向けるべきだという、いわゆる「キャノン」拡大の主張があります。それに呼応するかのように、18世紀末から、19世紀始めにかけて書かれ、一般読者、ことに女性読者に圧倒的な人気のあった、若い女性が男性に誘惑され、最後は悲劇的な結末を迎えるセンチメンタルな通俗小説、あるいは、逆にそうした誘惑に屈せず、それがきっかけで上流階級入りを果たす貧しい女性を描く教訓的な小説が数多く書かれ、中には200版を重ね、50万部が売れたという小説もある。当時の読者数を考えれば、想像を遙かに超えたベストセラーと言えるでしょう。例としては、スザンナ・ハズウェル・ローソンのCharlotte Temple: A Tale of Truth (1794)だとか、ハナ・ウェブスター・フォスターのThe Coquette: A Novel:Founded on Factなどがあり、いずれも「真実」(Truth)、あるいは「事実」(Fact)の物語と称されて、現代の女性週刊誌を賑わすようなスキャンダルを描いて、広範囲な読者を獲得していました。
こうした女性による、女性のための小説がつぎつぎに出版され、つぎつぎに忘れられていきました。しかし、20世紀の女性解放運動、フェミニズム運動の流れの中で、こうした小説が単なるメロドラマではなく、男性支配社会の中で犠牲になった女性の物語と受け止められ、そのヒロインたちはあの時代の社会で人間として自己主張をし、逆に社会的に非難されたフェミニズム、女性解放の先駆者として評価されるようになったのです。芸術作品としての完成度としては、大半は感傷的で、日本風に言えば、お涙頂戴型の語り口であったり、センセーショナルな事件をあまりに誇張しすぎているし、あるいは冗漫であるし、よくある物語の展開に終始するし、人間の本質や、男女の「愛」(love)に関しては、あまりにも表面的な描写しかできていない、男性中心の結婚観を女性に押し付けるお説教が強すぎるなどなど、欠点はいくらでも指摘できますが、しかし、ともかく、忘れられていたこうした女性作家の作品が、現在、文学史の一部として、紹介されるようになったのです。それは評価されるべきだと思います。
しかし、こうしたセンチメンタルな小説がすべて評価されるようになったかというと、そうでなく、現代の男性が書いた「純愛」物語などは、依然として無視されたままです。ベストセラーになり、映画化されて評判となり、それが相乗効果を引き起して、さらに売れ行きを伸ばしますが、文学史的には評価されることはない。そして売れれば売れるほど、シリアスな文学批評家や、純文学の研究者および読者からは軽視される。そうした例は無数にありますが、今日はその一つを典型例として紹介します。皆さんはLove Story という小説をご存知でしょうか。出版されたのは1970年。もう40年前のことで、題名通りの純愛物語です。当時20歳で読んだ人も、もう還暦を迎えているはずです。それをここで引き合いに出したのは、40年前の作品なので、もう過去のことと思っていたのですが、その作者エリック・シーガルが、今年2010年の1月17日に72歳で亡くなり、日本でも、つい先日なくなったThe Catcher in the RyeのJ・D・サリンジャーほどではないですが、新聞に大きな訃報が掲載されていたからです。お気づきになった方もいると思いますが、アメリカの新聞にも大きく報道されていました。ある英字新聞には、‘Erich Segal, 72, whose ‘Love Story’ moved millions’(エリック・シーガル、彼の‘Love Story’は何百万の人びとを感動させた)と書かれていました。
Love Story といっても分からない人も、映画の日本語の題名「ある愛の詩」と言えば思い出すのではないでしょうか。あるいはそのテーマ音楽(「ある愛の詩」と聞けば、そのメロディーを思い出す人もいると思います)を聴けば、きっとおわかりかと思います。このエリック・シーガルはプロの小説家ではなく、本職はイェール大学のれっきとした古典語、ギリシャ、ローマ語・文学の教授で、余技として書いたこの小さな小説Love Storyが大ベストセラーになったのです。この小説は‘tens of millions’売れたといいますから、数千万部印刷されたと思われます。そしてNew York Timesのベストセラー・リストには、そのハード・カヴァー版が1年間ランクインしていたと言われます。物語は単純で、ニューイングランドの名門に生れたハーヴァード大学生(Oliver Barrett IV)が、姉妹校のRadcliffe女子大の図書館で出会った、おそらくイタリア移民の女子学生と恋に落ち、家族の反対を押し切って、彼女と結婚します。ところが、彼女は結婚後まもなく白血病に冒され、二人の結婚生活は終わりを迎えます。ある英字新聞の追悼の文章には‘She dies, he cries, and the story ends.’とあるが、その通りの単純な物語です。そこで私が言いたいのは、確かに小説としてはその文学的な質からいって無視してもかまわないかもしれませんが、何千万部も売れて、多くの読者の心をつかんだ(特に若い読者に大きな影響をあたえました)こうした小説を、文学的な歴史的事実としてはたして無視してよいか、ということです。さらに言えば、文学にはさまざまなジャンルがあり、こうした若者向けの小説は、サブジャンルとして一段下に見られていますが、こうしたものがあってこそ、それが下地となって一流の文学が現われるのではないでしょうか。ある英字新聞では、この単純な小説を「ケイタイ小説」の走りだといっていましたが、この「ケイタイ小説」を、わが国の文学批評家や書評家は、どのように考えているのでしょうか。このようなことがあるので、「アメリカ文学史」のまん中の「文学」という要素も、何を文学とするかによって、まだまだ考えなければならないことがたくさんあり、その意味では私の文学史もまだまだ未完成なのかもしれません。
「アメリカ文学史」の成り立ち(3)――「歴史」
最後に、「史」、すなわち、文学の「歴史」の問題に移ります。この歴史的には二つの流れがありまして、ここでも厄介な問題が生じます。時間も限られていますので、基本的な言及にとどめます。この二つの流れのうちの一つは、少なくともアメリカ文学に関して言うと、文学の外側の条件や歴史とか、社会的な背景、要するに、文学そのものではなく、文学を取り囲む、いってみれば、外濠を埋めて文学にアプローチしようとする方法です。このように客観的に外から科学者のように文学を理解し、文学者と文学作品を歴史的・社会的に位置づけようとする方法です。いわゆる「文学史」といえば、普通はこの方法に基づいて書かれています。そして、こうした方法は、19世紀後半から、20世紀始めに有力なものになってきました。それまでの主観的な印象批評に対して、実証的かつ科学的・客観的に文学を扱う。その最初とされるのが、有名な「イギリス文学史」を書いたフランスのイポリート・テーヌ(Hippolyte Taine)(1828-93)という文学史家で、彼は「人種」「環境」「時代」が文学を決定すると主張しました。単なる主観的な印象批評でなく、科学的に、ということは、客観的かつ実証的に文学の発展の歴史を記録すべきだと主張するのです。
つまり、文学というものは、ある時代の特定の地域の人種が生み出したもので、日本の明治時代の文学は、明治という特定の時代の日本人が生み出した特殊な文学であり、逆にいえば、時代や地域、環境、そして、そこに住んでいる人間を反映していなくてならないというのです。こうした文学観の影響は非常に大きなものでした(この時代は科学的思想が支配的となり、文科的な活動も科学的、実証的に解釈することが求められました)。1930年代頃から、アメリカの大学の英文科では、イギリス文学とは別に、アメリカ文学史が独立した分野として研究されるようになりました。そしてこの流れに沿ったアメリカ文学史も書かれることになりました。その代表的なものが、一時期、アメリカ文学研究に決定的な影響を及ぼしたヴァーノン・ルイス・パリオントン(Vernon Louis Parrington)の『アメリカ思想の主流』(Main Currents in Amrican Thoughts(1927‐30))です。この文学史は、アメリカ社会の主流といってよいジェファソン的なデモクラシーの精神が、どのようにそれぞれの時代の文学作品に反映されているかを跡づけようとするものでした。
パリントンにとって価値あるアメリカ文学は、いま言ったように、ジェファソン的なデモラシー(つまり地方分権的な民主主義)の精神を反映する、あるいは、それを宣伝するものでなければなりませんでした。そしてパリントンは、事実、そうなっていると主張して、1200ページを超えるこの3巻本の膨大な文学史を発表しました。そして、時代、社会との関係を重視するあまり、時代を超越した観のある詩人・短篇小説家で、誰もがその名を知っているエドガー・アラン・ポーには、1200ページを超えるこの大文学史の中で、何と2ページ半のスペースしかあたえなかったのです。その理由はいま言った通り、彼は「アメリカ思想の主流」から完全に逸脱している、文学を生み出した当時のアメリカ社会をまったく反映していないから、というのです。確かに、その通りで、ポーの作品から19世紀前半のアメリカ社会を想像してみることは不可能に等しいです。有名な“The Fall of the House of Usher”(1839)や、“The Masque of the Red Death”(1842), あるいは、彼の詩の代表作といってよい“The Raven”(1845)などの背景は、どこであるか場所は特定されていませんし、少なくともアメリカであるとは思えません。おそらく彼の心象風景といってよい想像の世界になっています。したがって、ポーの作品が当時のアメリカ社会から逸脱していることを理由に、パリントンがこの有名作家を無視するのは当然というか、予想されることではありました。しかし、エドガー・アラン・ポーを無視して、はたしてアメリカ文学が語れるでしょうか? もちろん、ポーに対する好き嫌いはあるでしょうが、この詩人をアメリカ文学史から排除することは、はたして許されるのでしょうか?
当時のアメリカは、西部開拓が進み、科学技術も進歩し、奴隷制度という大問題を抱えながら、物質的な大国に成長しようとしていた。ポーはそうした歴史的な現実に対して背を向けて、社会の物質主義的な傾向を拒絶し、そして純粋な文学的な世界で創作をつづけました。彼をそのような詩人・小説家とみることは可能であり、このようなアメリカ社会を拒絶した文学者ととらえれば、その文学は逆説的に当時のアメリカ社会を反映しているといえなくもありません。そして、過去の歴史が堆積しつづけたヨーロッパ諸国とは違って、アメリカは歴史をもたない、空白の国です。そんなアメリカという国の文学者や詩人が、どこにもない、どこの国とも特定できない、つまり、国籍などを超えた想像世界で展開する文学作品を生み出すことこそ、まさにアメリカ的だといえなくもないのです。それはともかく、アメリカの文学史は、パリントンが推し進めたような、社会環境といった外面的な条件を検討し、それによって外部から実証的かつ客観的に文学を眺める文学史から始まりました。
それは1930年代のことでしたが、アメリカの1930年代といえば、ご存知のように、1929年秋のウォール街での株価大暴落をきっかけに、大不況に見舞われていた時代でした。そしてこの時代は、今から思うと信じられないかもしれませんが、思想的にはマルキシズムなどの左翼思想が国内では支配的でした。そして1932年、ヴィクター・フランシス・カルヴァトン(Victor Francis Calverton)という研究者が、The Liberation of American Literature という、題名からもその内容が想像できる文学史を発表します。この文学史は、左翼的な立場から、資本主義社会の支配からの民衆の解放を主張する文学を積極的に評価しています。1932年の出版ですので、ヘミングウェイやフォークナーをはじめとする「失われた世代」の小説家に十分な評価を下すことは時代的に不可能でしたが、それにもかかわらず、同時代の、アメリカ資本主義社会を痛烈に批判したU.S.A.(この作品は3部からなる大長編小説で、その第1部 The 42nd Parallel は出版直前の1930に出版されています)をいち早くとり上げて、高く評価しています。カルヴァトンによると、このジョン・ドス・パソスの小説は、アメリカの労働者たちが資本主義体制から脱する社会革命を主張するもので、階級闘争の公式を見事に打ち出していると高い評価を与えました。それだけでなく、作者ドス・パソスは、大衆から比類なき広範囲の支持を受けており、今後の活躍が期待されている、としています。芸術作品としての完成度などは問題にされず、公式的なマルクス主義思想が表明されていれば、もうそれだけで評価されるのです。こうしてアメリカ文学史は、この社会意識の強いカルヴァトンから始まりました。しかし、現在では、ドス・パソスの評価は下がり、カルヴァトンが無視したヘミングウェイ、フォークナーがこの時代を代表する作家として高く評価されています。
これに対して、時代的に少し遅れますが、1930年代の後半から1950年代にかけて、アメリカでは、それまでの主観的印象批評、歴史批評、社会批評に対する反動でもあるかのように、文学作品のテキストそのものに密着した‘New Criticism’, つまり、「新批評」と呼ばれる形式的な分析批評が、アメリカ南部のテネシー州にあるVanderbilt大学に所属する学者や批評家などによって主張され、アメリカの大学英文科を席巻することになります。この批評の代表的な研究者や学者は、ジョン・クロウ・ランサム(John Crowe Ransom)、クリアンス・ブルックス(Cleanth Brooks)、アレン・テイト(Allen Tate)などです。詳しいことは、私の『講義アメリカ文学史』の第3巻第65章をご覧ください。ニュー・クリティシズム、すなわち新批評は、アメリカだけの批評運動でなく、イギリスのI・A・リチャード(I.A.Richard)、ウィリアム・エンプソン(William Empson)、そしてT・S・エリオットなども深く関係しています。この「新批評」という運動は、文学作品の構造、文体、イメージ、象徴(symbol)、語り口などを、細かく分析します。その点では、客観的であり、科学的、サイエンス的な面もありますが、同時にこの批評は西欧の文化的な危機意識を強く反映しています。つまり、資本主義、階級闘争といった経済学ではなく、社会の大きな文化伝統を問題にし、文学の独自性を重んじます。すなわち、文学は科学とも、経済学とも、社会学とも違ったものであり、そうした形でのその価値を主張するのです。時代は科学的な考え方が支配的になっていましたが、その中で新批評家たちは、文学は科学とは違う、科学では捉えられない人間の真実を追求する文化活動であると主張し、文学が科学ではないことを科学的に証明しようとしました。
そのような意味で、この新批評が、公式主義的な左翼批評のアンティテーゼとして現われるのは当然でした。しかし、文学史を書くとなると、扱っている文学作品を詳細に分析して、その意味を明らかにするのは必要ですし、そして私自身も、作品をただ表面的に紹介するのではなく、「新批評家」のように、作品それ自体を細かく具体的に分析することを心がけました。たとえば、今度の『補違版』では、第109章のスティーヴン・ミルハウザーの章において、この作家の代表作といってよいMartin Dressler: The Tale of an American Dreamer (1996)を、独立した研究論文のように詳細に分析してみました。そして、文学史ですから、文学の流れの中に位置づける必要もあり、題名にある「アメリカの夢」と結びつけたり、さらに、その背後にあると思われるシェイクスピアのThe Tempest の影を読みとったり、いま流行りの文学理論の一つである、「重ね書き」(palimpsest)、あるいは「間テクスト性」(intertextuality)、つまり、平たく言えば、文学はまったくの空白状態の中から現われるのではなく、新しい作品の背後にはつねに過去の作品が見え隠れするという考えを紹介したりしてみました。しかし、文学史としては、この分析的なアプローチによって文学の流れを辿るのは、限界があるように思われます。
ついでに言いますと、いま分析的に読むとしましたが、たとえばこの小説の題名の後半部分、つまり副題は、‘an American Dreamer’となっています。これは中学生でも知っている3つの単語から成り立っていますが、実はこの表現は曖昧なところがあって、二通りに解釈できるのです。これも『補遺版』で話題にしましたが、まずこの小説を丁寧に読むと、‘dream’という単語は無数に出てきます。私が数えた結果の数も、『補遺版』に記してあります。ぜひご確認ください。それで、‘an American Dreamer’の二つの解釈ですが、答えを先に言ってしまうと、一つは、「アメリカの夢」(American Dream)に人間を表す‘er’が付いた「アメリカの夢を見る人」と解釈できますし、もう一つは‘dreamer’という名詞に形容詞‘American’が付いたと考えて、「夢を見るアメリカ人」と考えることができます。ここでは、どちらであるかというのではなく、一つの表現で二つの意味を現わしているといってよいと思います。主人公は夜寝ながら夢を見て、その夢にうなされることもあると同時に、生涯を賭けて、「アメリカの夢」に象徴される経済的な「成功」も追求しようとします。そして、主人公はどちらともとれる夢にとり憑かれて、33歳の短い人生を生きます。この33歳という年齢にも意味があるといえば意味があるのです。おわかりの方もいるでしょうが、これはイエス・キリストが十字架に掛けられて死んだ年齢です。そしてアメリカ文学にも、キリスト的な人物としてこの年齢で登場する、あるいは死んでゆく人間が何人か現われています。たとえば、有名なフォークナーのThe Sound and the Fury の第1部に登場する白痴のベンジー・コムプソンも、33歳に設定されている。もう一つ例をあげれば、これもフォークナーですが、Light in AugustのJoe Christmasも33歳で殺され、しかも彼の場合はイニシャルJ.C.がキリストと同じです。そういったことも、私の文学史では言及しました。
このように、文学史には、喩えて言えば、社会環境といった外濠を埋めて文学の本丸に迫る行き方と、作品そのものを分析して、ある国の文学の展開を跡づける行き方の、二つがありますが、できればその両方からアプローチするのが望ましいと私は思います。そして、実際にそのようなアプローチで成功したものも少なくありません。たとえば、厳密には文学史でありませんが、19世紀の中葉、エマソンを中心にして、ナサニエル・ホーソーンのThe Scarlet Letter (1850), ハーマン・メルヴィルのMoby-Dick (1851), ヘンリー・デイヴィッド・ソローのWalden (1854), ウォルト・ホイットマンのLeaves of Grass (1855)などが矢継ぎ早に出版された時代を扱った、F・O・マシーセン(F.O. Mathiessen)の古典的名著American Renaissance: Art and Expression in the Age of Emerson and Whitman (1941)があります。この研究書にちなんで、この時代は、その後「アメリカン・ルネッサンス」と呼ばれるようになりました。ここで、著者マシーセンは、これらの文学者をその時代のアメリカの社会と関連して論じるとともに、こうした文学者の作品の形式的な特徴、とりわけ有機体的な(organic)表現、作品構造、具体的に言えば、シェイクスピアや、17世紀イギリスの形而上派詩人(metaphysical poets)との繋がり、あるいは、ナサニエル・ホーソーン、ヘンリー・ジェイムズ、T・S・エリオットと展開する文学伝統など、歴史的な影響を明らかにしています。この研究書は明らかの社会意識の強い、すでに何度も言及したパリントンのMain Currents in American Thoughtsの延長線上にあり、かなりの影響を受けていることがうかがえます。マシーセンは、良心的な社会意識の強い文学研究者で、50年代に入ると、アメリカでは、ご存知のように、マッカーシイズム(McCarthyism)という共産主義者をターゲットにした「赤狩り」旋風が吹き荒れますが、彼はその犠牲者として自ら命を断つことになりました。
しかし、マシーセンの偉大なところは、狭いアメリカのデモクラシーを擁護し、アメリカの未来に寄せる期待感を表明するだけでなく、個人と時代や、社会との関係、悪の認識、自然観、文化的な伝統の意味、象徴主義、言葉それ自体の意味といった、20世紀前半の、いわゆる「モダニズム」文学が追求する問題を、アメリカという社会を背景にして論じ、それを総合的な研究として完成させたことです。もし、問題があるとしたら、アメリカの未来に関してあまりにも楽観的であることで(それは、このアメリカン・ルネッサンスの原動力となったエマソンの影響かと思われますが)、その点では、ベトナム戦争後に活躍した、アメリカの歴史に否定的な態度をとる研究者たちから批判を招くことになりました。しかし、そうは言いましても、私が今問題にしている、外堀を埋めて文学に迫る外面的なアプローチと、文学に内面的にアプローチする、この二つの方法を融合したケースとして、大いに評価できるのではないかと考えています。
人間中心の文学史を
そうしたことを、東大在職中、文学史の授業をしながら右往左往していた時に偶然出あったのが、今日お渡しした『図書新聞』の対談の終わり近くで取り上げた、モリス・ディックスタイン(Morris Dickstein)のDouble Agent: The Critic and Society (1992)です。モリス・ディックスタインは1940年生まれですから、現在は引退していると思われますが、かつてはニューヨーク市立大学英文科教授で、Partisan Reviewの編集長なども勤めた批評家です。学生運動の嵐が吹き荒れた50年代から60年代にかけて、コロンビアとイェール両大学で大学教育を受け、その時代を生きた証人として、60年代の若者の反乱を扱った『楽園への入り口:60年代のアメリカ文化』(Gates of Eden: American Culture in the Sixties , 1977)という本を発表しました。ディックスタインは本書において若者の政治的な権利主張、性革命、countercultureなどを擁護するとともに、その限界やマイナス面も指摘して、論壇で注目されました。私は、このディックスタインのDouble Agent: The Critic and Societyを読んで、カウンターカルチャーというものを理解したように記憶しています。Double Agent は、その後の前衛的で難解な最近の文学理論や批評理論を、現実社会を超えて、下手すると空理空論になりかねない、として批判しつつ、批評の社会的な役割を主張しています。そして、『図書新聞』の対談でもお話ししたことですが、批評家、文学史家は、「文学的な社会学」(literary sociology)と「形式的な分析」(formal analysis)という両陣営の間で、双方の秘密の情報を反対陣営に流し、両方の融和統一を図るべきである、すなわち、この本の題名にあるとおり「二重スパイ」(double agent)の役割を果すべきだ、とディックスタインは言います。しかし、こうした第三の方法は、「二重スパイ」という言葉を使って、両者を裏切ることになり、そのために、裏切り者として双方から命を狙われる、つまり、批評家、研究者、文学史家としての資格を疑われる危険をも示唆するのです。
もう時間がほとんどなくなってしまいましたが、この文学史でのわたしの立場は、今日お渡しした『図書新聞』の第一面にある赤字の見出し、「人間中心の文学史を」ということに尽きます。そして、この「人間中心」ということは、普通に見られる誰もが知っている人間の姿を捉えるというだけでありません(もちろんそれも含まれていますが)。この「人間」という言葉で私が考えるのは、これもこの『図書新聞』の諏訪部浩一さんとの対談で具体的に説明していますが、「想像もつかないような人間の一面」です。いかにも人間は、神を思わせる崇高ですばらしい一面を持つと同時に、悪魔的としか言いようのない、恐ろしく、おぞましい一面も備えているのです。それを文学者は、鋭い感受性、洞察力でもって捉えようとします。それはまさに理性的には割り切れない人間の一面で、それこそが人間の本当の姿だと思います。そして、この人間の一面が作品に盛り込まれていたら、もうそれだけで文学としての価値がある。これは、2007年に後藤和彦さんと行なった対談でも言ったことですが(これは今回の『補遺版』の最終章に再録してあります)、「文学は人生の教科書ではなく、具体的な生き方についてお説教をする必要などまったくない。むしろ、普通では想像できない人間の驚くべき姿、幸福な瞬間であるだけでなく、地獄を垣間見るような恐怖の体験でもよい、そうしたものを読者に伝えるほうがより重要である」と私は思っています。『図書新聞』の対談では、ご覧のように、編集部の方(須藤巧氏)が「文学は『理性的に割り切れない』瞬間で読者を魅了する」とまとめてくれました。その通りなのです。今日お集まりの皆さん方も、私のこの文学史を通して、自分なりに文学作品の中に、こうした「瞬間」を見いだす読書体験をしていただきたいと願っています。
長くなりましたが、これで私の講義を終わりにします。